『赤い靴』の女の子「きみ」
『赤い靴』の女の子は、明治35年7月15日静岡県清水市に生まれた「きみ」ちゃんでした。
「きみ」は、母「かよ」に連れられて北海道の函館に来るのですが、未開地の開拓団に幼い子を連れて行けず、教会のアメリカ人宣教師ヒュエット夫妻に託し、そこの養女となりました。
しかし、夫妻がアメリカに帰国することになったとき、「きみ」は当時不治の病とされていた結核に侵されていました。そのため、アメリカには連れて行けず、東京麻布十番の
鳥居坂教会の孤児院に預けられました。
その後、3年間の闘病生活の末、9歳というあまりに短い生涯を終えることになりました。
「きみ」を託してから2年後、母「かよ」は、入植に失敗し、夫鈴木志郎とともに札幌に移りました。札幌で鈴木は新聞社に入社、そこの同僚として会ったのが、野口雨情でした。二人は同世代で安月給の新聞社員同士。一軒家を二家族で借りて共同生活を始めました。
その折、母「かよ」から「きみ」への思いを聞き、母の愛に感動した雨情が詩に書きました。その詩に本居長世が曲をつけ、童謡『赤い靴』が誕生します。
母「かよ」は、娘の死も知らないまま、昭和23年「きみちゃん、ごめんね」の言葉を残して64歳で他界したそうです。
『赤い靴』の女の子のモデルが明らかになったのは、昭和48年11月の新聞夕刊に掲載された「野口雨情の『赤い靴』に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」という、「岡苑」さんの投稿記事を見た、当時北海道テレビ記者の菊池寛が知り、5年余りの歳月をかけて女の子の実在を突き止めました。
麻布のパティオ十番の「きみ」の銅像は、このような不幸を繰り返さないために、十番商店街の人たちの手で、平成元年2月28日に造られました。
「きみ」のお墓は、青山霊園内の鳥居坂教会の共同墓地にあります。墓碑には「佐野きみ」とあります。佐野は、実父の姓だそうです。