童謡伝道マガジン「ふんふん」H・U・N企画

今夜のお話なあに

2020.8.1今夜のお話なあに

『赤い靴』の女の子「きみ」

 『赤い靴』の女の子は、明治35年7月15日静岡県清水市に生まれた「きみ」ちゃんでした。
 「きみ」は、母「かよ」に連れられて北海道の函館に来るのですが、未開地の開拓団に幼い子を連れて行けず、教会のアメリカ人宣教師ヒュエット夫妻に託し、そこの養女となりました。
 しかし、夫妻がアメリカに帰国することになったとき、「きみ」は当時不治の病とされていた結核に侵されていました。そのため、アメリカには連れて行けず、東京麻布十番の
鳥居坂教会の孤児院に預けられました。
 その後、3年間の闘病生活の末、9歳というあまりに短い生涯を終えることになりました。
 「きみ」を託してから2年後、母「かよ」は、入植に失敗し、夫鈴木志郎とともに札幌に移りました。札幌で鈴木は新聞社に入社、そこの同僚として会ったのが、野口雨情でした。二人は同世代で安月給の新聞社員同士。一軒家を二家族で借りて共同生活を始めました。
 その折、母「かよ」から「きみ」への思いを聞き、母の愛に感動した雨情が詩に書きました。その詩に本居長世が曲をつけ、童謡『赤い靴』が誕生します。
 母「かよ」は、娘の死も知らないまま、昭和23年「きみちゃん、ごめんね」の言葉を残して64歳で他界したそうです。
 『赤い靴』の女の子のモデルが明らかになったのは、昭和48年11月の新聞夕刊に掲載された「野口雨情の『赤い靴』に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」という、「岡苑」さんの投稿記事を見た、当時北海道テレビ記者の菊池寛が知り、5年余りの歳月をかけて女の子の実在を突き止めました。
 麻布のパティオ十番の「きみ」の銅像は、このような不幸を繰り返さないために、十番商店街の人たちの手で、平成元年2月28日に造られました。
 「きみ」のお墓は、青山霊園内の鳥居坂教会の共同墓地にあります。墓碑には「佐野きみ」とあります。佐野は、実父の姓だそうです。

文/もり・けん
1951年大阪市生まれ。
長年勤めた幼児教育出版社を
43歳で退社し、モンゴルに渡る。
自然に添うように生きる遊牧の暮らしを学び帰国。以後モンゴルの正しい理解と亡くしてしまった日本の心を取り戻せと訴え続ける。

日本の童謡の普及のため、作詞(新しい童謡の創作)、演奏(昔からある良い童謡の伝承)の両面で展開、全国各地を講演、ハーモニカによるコンサート活動は海外にも及びモンゴルを始めロシア、中国、北欧のフィンランドやスウェーデンなどの子供たちとも交流している。

文部科学省の財団法人すぎのこ文化振興財団の環境ミュージカル「緑の星」をはじめビクター「ふしぎの国のアリス」などを発表、絵本、童話、童謡など子供のための創作活動をしている。

現在、日本音楽著作権協会会員、日本童謡協会会員、詩人、ミュージカル作家、作詞家、ハーモニカ奏者。梅花女子大学、朝日カルチャーセンター、読売文化センター、ヤマハ音楽教室などの講師を勤める。