荒城の月
1901(明治34)年、瀧廉太郎が21歳の時、旧制中学校唱歌として応募して選ばれた無伴奏の歌曲が『荒城の月』でした。
日本での歌曲は、これまでの四七抜き音階つまり日本の旋律がほとんどでしたが、瀧廉太郎は初めて七五調の歌詞と西洋音楽のメロディーを融合。その意味で、歴史的な楽曲といわれています。
瀧廉太郎は、1899(明治32)年からドイツのベルリンに留学、巖谷小波らと交友を持ちますが、5か月後、肺結核を発病し、現地で入院。1902年に帰国し、2年後の1903(明治36)年に満23歳(享年25)の若さで一生を終えました。死因が結核のため、作品は焼却され、現在確認されている作品は34曲しかありません。
瀧廉太郎の死後、1917(大正6)年、山田耕筰は『荒城の月』をロ短調から短三度上のニ短調へ移調、ピアノ・パートを補い、旋律も改変しました。山田版は全8小節からテンポを半分にし16小節に変更、一番の歌詞でいえば「花の宴」の「え」の音を、原曲より半音下げ、シャープ(#)を削除しました。
1918(大正7)年、セノオ音楽出版社から独唱『荒城の月』として出版され、これはシャープがついています。1920(大正9)年1月25日発行の同社の版でもシャープがついていましたが、1924(大正13)年発行の同社の版ではシャープがありません。
なぜ山田耕筰がシャープ記号を削除したかについては、作曲家・音楽評論家の森一也(1915-1998)が、そのことに関して書き残しています。
それによれば、1927(昭和12)年の秋、東京音楽学校の橋本国彦助教授が次のように語ったそうです。
――欧州の音楽愛好家に『荒城の月』を紹介する際は、山田耕筰の編曲にすべきである。滝廉太郎の原曲は「花の宴」の「え」の個所にシャープ(#)がある。すなわち短音階の第4音が半音上がっているが、これはジプシー音階の特徴で、外国人は日本の旋律ではなくハンガリー民謡を連想する。それを避けるために、山田は三浦環に編曲を頼まれた時、#を取った。外国で歌う機会の多い三浦にとっては、その方が良いとの判断だったのだろう――
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